こんばんは、鵜島です。 まもなく丑三つ時ですが、仕事もひと段落したので、ここに少し書いてから就寝することにいたしますね。 少し重力のある話ですが… 昨年10月に書画 杉乃会の発起人でもある父・瑞光が他界して、そのあとを引き継いでいるわけですが、 父の百ヵ日を目前にして、母も66年の生涯を終えました。 亡くなる数時間前には、「ごはん食べて来」「うん、そうする、またあとで」「はいはい」と、会話していた直後の急変でしたので、 ふた七日を済ませた今日も、まだ少し体と心がズレているような感覚があります。 当然、死は誰にも平等で、己を鑑みても、悲嘆をひけらかすようなこともなく、ただ粛々と、 敬意と衝撃をもって、法要、事務をすすめているわけです。 通夜、葬儀に際しましては、父の時と同様に、誠意あふれる対応をいつもしてくださる安芸典礼さんにお世話になりました。百日を待たずして母の葬儀にとりかかることを、優しく丁寧に受け止めてくださいました。中でも、いつも気にかけてくださる鶴mさん、若いのに丁寧なA石さん、父のも母のも旅支度をしてくれた支配人さん(すみません、お名前が…)には本当に感謝しております。その他にもお顔が浮かぶスタッフさん沢山いるのですが、どうにもお名前が出てきません。とにかく、本当によくしてくださいました。 法要全般に関しても、また寿徳寺様ですが、広島鵜島二代目ですから、今後はこちらのお寺にお墓を立てようと思います。 さて、これからまた49日まで、毎週の法要にご住職が来てくださるのですが、今日の読経のあとで、少しお話をうかがいました。 その中で、ご住職は「縁」という言葉を「接着剤」で説明してくれました。 むかし、父がよく言っていました。 「お釈迦様がお弟子さんに、なぜ私たちは生まれてきたのでしょう?と聞かれた時に、お釈迦様が、「縁ゆえに」と答えてから、縁という言葉が生まれた」 「お釈迦様でもなぜ生まれてきたのかをはっきりと説明することはできなかった。そこで縁という言葉が降りてきた」 「縁という言葉、響き、意味。すべてが絶妙だ」と。 おそらくいろんな人が縁とはなにか?もしくは様々な縁を感じて、考えて生きているのでしょう。 その「縁」を「接着するもの」と考えると、なぜだかスッキリといたしました。 僕はユニティ(一致)というものが好きなのです。 なにをするにもそれを考えます。 不一致なものは、どこかまだ調整や努力を必要としているように思うのです。 もちろん、ふぞろいな状態で一致しているものには、違和感は感じません。 ともあれ、まだしばらくは冬です。 今が寒くてよかった。身が引き締まります。 春には、落ち着いて自分のことを始められたらいいな。 |
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