こんばんは、鵜島です(^_^) 今週は日本列島に寒波到来で、実直な方ほど緊張感のある週になりそうですね。。 今朝方も、ニュースではちらほらと寒波状況や事故のニュースが相次いで、心配になります。 そんな時、日頃お付き合いのある方は勿論、しばらくお会いしていない方のことまで、気にかかってしまいます。 みなさんが、近隣の人達と、どうか笑顔で過ごされますように。 福岡でも、久しぶりの雪が降る中、今日教室に来て下さった生徒さん達とは、なんだか心温まるようなお話も出来た気が致します。 そんな中、最も古株でありながら精進潔斎を実行している生徒さんと、「心」についての話になりました。 基準、「心」と「体」は切り離されている現代の生活観では、「心」が震える、感動することは、「非日常」として捉えられがちです。 しかし、本質では「心と体」は個人においてのみ密接しており、 例え家族と言えども、「体」=「行動」であり、そこに喜怒哀楽を見い出している方も多いと思います。 「心」=「行動」となるのは、ご本人様、ただ1人なのですね。 そもそも「心と体」が切り離されて考えられるのは、儒教儒学が言うところの「三魂七魄(さんこんしちはく)」、 三分が心(魂)、七分が体(魄)という観念が、少なく見積もっても200年間は、この日本で浸透しているからなのですが、 日本で根付いたあらゆる宗教が、それを根底に根ざそうと云う心根はもっていると思います。 やや難しい話になるのかも知れませんが、(笑) 「心」と「体」を切り離さずば、偶像も美術も価値観も宗旨も、ややもすれば「行動規範」も、重要なものとして取り上げられないのですね。 巧く説明できているのかは、まだ僕も勉強中なので分かりませんが、 この「切り離して考える」ことこそが、日本に根付いた価値観ではあると思うのです。 一説、として、お聞きください。 「心理」が「行動」を支えるものではないのです… 「行動」が支えるものこそが、「心理」ではないでしょうか。 偉人と称せられる方々の「心理」を、どれだけ上手く伝える人がいたとしても、その偉人の「行動」を平らかに表現できることは「事実」のみです。その事実たるもの、偉人の偉業たる由縁は、偉人がかけた手間、 努力、 行動、に他ならないのです。 拙ない文面ですが、「心を入れ替えて手間をかける」ことは非常に「非日常」的に思います。むしろ、「手間をかけて、心が伝わる」とした方が、通りがいいように想うのですね。 前後しますが、本日、件の生徒さんと相槌を打ったのは、 「心」と「体」に同時に響くのは、「肉声の言葉」以外にはないのでは?という一点です。 「ありがとう」 「お元気ですか」 「どうですか」 「頑張りましょうね」 体には五感と言うものがあります。 前述の論理では、「心が五感に通ずる」のではなく、「五感が心に響かせる」ということになりましょうか。 つまりは、 「手間をかけること」と、「他者の五感に投げ掛ける」こととは、イコールになりそうです。 冒頭に戻りますが、近隣の人達に手間をかける(労を惜しまない)ことは、「心を伝える」ことに他なりませんね、という会話があったのですよ、 という日記でした◎ 笑顔。 朴同 拝 |
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