松下幸之助さんの言葉です。 〉〉〉〉 この日本の国に 活力に満ちた青春を。 勤労者も学生も 経営者も主婦も あらゆる人々が 自分の殻を脱ぎ捨てて... みずみずしい光のなかへ出よう。 平和と幸福と繁栄の道を 今こそ真剣に考えるのだ。 |
今日、これまでの悩みがひとつ、なくなった。 教室で自己アピールというか、良くない言葉を発言したり、品のな これまでは柔らかくたしなめたりしてきましたが、今日は変えて行 その子が、悪い言葉を使う度に、 明るく、元気に、 「しね、とか言うな!」... 「げろ、っち言わん」 「ち○こっていかんやろ!」 とはね飛ばしてやりましたが、すると、不思議とだんだん言わなく それに、教室の空気もよくなりましたo(^-^)o あれ?これって何だろう。と考えた時に、その子の不安やストレス うん、そういうもの。 悪言を否定されて落ち着く子もいる。 悪言だからこそ否定されると嬉しい顔をする。 うん。 これからもビシバシ叱ってあげる。 覚悟しとき(笑) |
教室に通ってくれている小学校六年生の女の子が、 夏の間、人の何倍も努力して習字をしました。 僕も一生懸命いい作 美術展に応募して、賞をもらった。 報告してくれたその笑顔と、頑張った時間が、僕らの宝物。 本当にうれしかったよ。 |
11月8日になりました。 どうも、鵜島です。 ずっと、心はどこにあるのか?という問いかけを人生の中でしてきました。 心。 感情。 霊。 魂。 想い。 考え。 それらの明確な位置づけが、ある種の安定につながるものと思っています。 それを文章化、または行動化するものとして、宗教はあるのだとも言えますが、四七日を迎えた今日、少しだけ今までとは違った心境です。 毎週、寿徳寺様にお越しいただいて、読経をしますが、お経を読んでいる間、僕は時々目を閉じています。 そんな時、脳裏に浮かんでくるのは様々な釈迦涅槃図であったり、曼荼羅であったりします。 これは僕の知識によるものでしょうけれど、その度にいつか自分でも、自分なりのそういった宗教画をまた、新しい解釈で描いてみたいと思うのです。 そんな風に思う中、心の位置づけがどうにも変化してきたように思います。 それは、 「心は僕の中にはない」 ということ。 また、「僕の外側にも見当たらない」ということ。 それなのに、僕にとっての個人的な「心」は「世界」である、と不遜にも思うのです。 個 即 全。全 即 個。の考え方になるのでしょうか。 読経していると、これまで探し当ててきた心の在り処は、どうにも希薄で、もっと広い空間を心と呼ぶような気がしてきました。 今はただ、これからの僕の書画人生において、この心境が、よい影響を及ぼすことを、なんとなく願っています。 拝 |
いったいどんな未来を、あなたは夢見ているのだろう。 >>> 11月7日になりました。 どうも、鵜島です。 まずは先週末、福岡へ恒例の「第一土曜日書画教室」へ行ってまいりました!! いつも来てくださる皆様方も、初めましてのDさん(上手かった!!)も本当にありがとうございました!! もっともっと分かりやすく、丁寧にやっていきたいと思っています。 次回は12/7です♪ 今後ともどうぞ宜しくお願い致します。 さて。。 >>> 最近、未来が見えるようになってきました。 ( ̄◇ ̄;) いえ、それは、とりもなおさず、『自分』が見えるようになってきました。 どこか、人は「未来」を「自分がなにもしなかった場合の延長」で考えてしまいがちです。 ところが「何もしない」人なんているわけがありませんよね。。 これまで僕は、未来という定義を少し人任せにしていた部分があって、 『未来とは誰かと歩むもの』と思っていました。 この、『誰か』ということを定義しなくては、未来は揺らいでしまいます。 もちろん、複数の未来を持つことが出来るのは、現状複数の生活や人格を表現できている人には理解しやすいと思います。 「生活は分かるところもあるけど、複数の人格!?」と思う人もいるでしょう。 そこに疑問を抱く間、人はある種のパラドックスにおちいると思うのです。 場所や場面や状況で人格が変わらないとするならば… むしろ、未来は一方向です。 多種の人格を学ぶ。 そして未来を共有する人々の人格に、また学ぶ。 その時想定した「未来」へと時間が経過した時に、「どんなじぶんであるか」 それは、「経験」が教えてくれるでしょう。 >>> そんな、大きくて、本質的な話の出来る人が、今、僕のそばにいてくれることは、本当に嬉しく、ありがたいことだと、 思うのです。 拝 |